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代表の大塚です

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僕は3代目の跡取りだ

群馬から上京した大工の祖父が基礎を作り、父が地域一番にまで成長させた工務店。そこに3代目長男として生まれた私は、周りの人から大事に可愛がられ、のびのび育ちました。
生意気盛りの私はある時、大工の親方に言いました。
「僕は社長の息子なんだぞ!」
両手を腰にふんぞり返り、座っている親方に言う姿は、まさに上からの物言いです。思い出すだけで恥ずかしい振る舞いですが、子供なりに、「僕は3代目の跡取りだ」という意識があったのです。

恐ろしい父に精一杯の反抗

そんな親方への言動を父は許さず、私はしゃべれなくなるほど頬を叩かれました。正論をいい、間違ったことを許さない父はとても怖い父でした。

思春期で「後を継ぐ」事がなんとなく恥ずかしくなり、中学の友達に、「寿司屋になりたいんだ。カウンター越しに美味い寿司をにぎってさ、お客の話しを聞くんだ」と話していると、その話を聞きつけた父はまた私を正論で叱りつけました。
「バカな事を言ってるんじゃない!」体が大きくなった私は、叩かれることはなくなりましたが、それでも父が恐ろしくて反論できません。だから私は精一杯の反抗として人を巻き込みました。

職住一体だった我が家では、夕飯時にお客さんが来ます。そこで、お客さんが来ている時をねらって喧嘩をしかけました。「子供じみた事を言うな!」という父に対して、この時ばかりは、お客さんを味方に付けて正面から反抗出来ました。
「なんで僕の言う事をちゃんと聞いてくれないの!」
演出のはずだったのが、いつの間にか本気で大泣きして訴えかけていました。それほど父に対して強いストレスを抱えていました。家を継ぐどころか建築業そのものが嫌いになりそうでした。

建築の道に進みたい

中学を卒業した春休みに、父から現場作業の手伝いをさせられました。他所でアルバイトをしたかったのに、「忙しい実家を手伝うのは当たり前だ!」と許されませんでした。

そこでは割栗という石をひとつひとつ並べたり、ふらふらしながら一輪車を押したり、鳶の手元として足場を掛けたり、大工さんと一緒に柱を担いだりしました。
厳しい父親の命令で一生懸命汗を流す15歳の私に監督や職人さんは優しく励ましてくれました。皆がそれぞれの立場で、建築のいろんな事を教えてくれました。

高校に進学すると勉強もスポーツも他の生徒に歯が立ちません。
でも、父に強制された現場のアルバイトで私は建築の楽しさを知りました。その上、周囲にも評価され自分の居場所を見出すことが出来たのです。

「やっぱり建築の道に進みたい」
そう思って、私は建築の大学に進み、大手ゼネコンに就職しました。

職人さん達に揉まれて育った私はゼネコンの現場が楽しかった。監督をしていてものびのび仕事をこなし職長達からも人気者でした。
「大塚さんは、監督っぽくないなあ」
定例会議資料や安全書類を作るよりも、次々に職人に指示を出して工事を進める方が私には性に合っていたのです。
そして一級建築士の資格を取り、パソコンのスキルも身につけた8年目に
「もう戻ってこい」と父に呼び戻されました。

いよいよ家業を継ぐ時が来たのです。

実家では常務兼工事部長の肩書。若い監督たちにゼネコンの技術とパソコンスキルを教え、それまで実家では出来なかった規模の物件も自社で見積もりして施工まで出来るようにしました。 地元では飛ぶ鳥を落とすような勢い。事務所の移転と3兄弟がそろって会社に入った記念のパーティでは300人を超す参加者でにぎわいました。まるでバブルが復活するかのような期待を皆が持ちました。

突き付けられた現実

ところが実家の経営状態は自転車操業、毎月の新規契約がかろうじて銀行からの資金繰りを支えていました。そんな時に悪意あるデマが地元で流れました。その影響で予定していた契約が遅れだすと、とたんに資金繰りが厳しくなりました。
「うちの会社は大丈夫なの?」
と心配する妻を説得して私はゼネコンの退職金を提供しました。でも、その程度ではひと月凌ぐのがやっとでした。

結局、実家に戻って1年と8カ月で会社は倒産しました。
私は会長の父と社長の母、弁護士の4人で集会に参加した債権者たちに深々と頭を下げました。

社員も育ち、新規の営業チャンネルも広げてまさにこれから!それが何で?
悔しい気持ちでいっぱいでした。
「これからどうやって家族を支えていけばいいのだろう」

何でお前がここにいるんだ!

倒産の会見から3日後、私の人生を大きく変える事件がおこりました。

「自分たちの今後の身の振り方と工事途中のお客様のフォローをどうしようか話し合うのですが、健太郎さんも来てもらえませんか」と元社員から誘われ、私は地元のホテルへ向かいました。皆にもお詫びをしたかったからです。

会議室にはすでに20数名の元社員が集まっていましたが、だれも私と目を合わそうとはしません。
「私もこの倒産劇の被害者です。でも、みんなで協力して困難を乗り越えていきたい。一緒に頑張りましょう」そう訴えかけようとした時

「なんでお前がここにいるんだ!」

扉を開けて入ってきた元営業部長が真っ赤な顔で怒鳴りました。
「そんな会合だとは俺は聞いていないぞ。こんなところにいられるか!」
会場は騒然とし、厳しい目が私に集中します。

「あぁ、うかつだった。ここは債権者の集会だったんだ」
被害者面をしてのこのこ出てきた自分が恥ずかしくて、顔をあげられません。でもその羞恥心はたちまち激しい怒りに変わりました。

「部長だって自分の会社を倒産させた経営者じゃないか。会社が倒産したのは俺のせいか?契約が取れない営業マンは被害者か?工事でミスをして代金を回収できなかった監督は善良なのか?俺は20カ月しか働いていないのに社長の息子というだけで非難するのか!」
バーンっと椅子を蹴って会場を立ち去りました。

ゼネコンの技術を教えたはずの監督たちも、私の味方ではありませんでした。
「あの恩知らず達め!」
私は怒りをあらわにすることで、折れそうな心を繋ぎとめました。

でも事件は更に続きます。

まさか親父にまで裏切られるなんて

「工務店とリフォーム会社は別会計だ。ちゃんとリフォーム会社の再建を考えているからお前が集金してきてくれ」
父の言葉を信じ、お客様のお宅に向かいました。すると、代金を回収しようと協力業者たちが腕を組んで待ち構えています。
「玄関先でもめるのはお客様に迷惑だし、今日のところは私を信じて集金させてくれ」
彼らも真剣だし、私も真剣です。寒空の夜、無言のにらみ合いが続きました。

「我々が直接押しかけたら、お客様の方でも困るだろう。ここは大塚に任せよう」
ひとりがようやく口を開くと、他の業者も不満げな顔で私をにらみながらも道を開けてくれました。
彼らが私を信じてくれたおかげで工事代金の回収が出来ました。工務店の売上と比べると微々たる金額ですが、倒産後の私たちにはとてもありがたい大金でした。

「協力業者さんたちには、これからいい仕事を回す事で少しずつ報いていこう」私はそう心に誓い、父とのリフォーム会社再建を決意しました。
しかし、協力業者を集めた集会で父が言った言葉は

「今までの手形を放棄して欲しい。そうすればフォーム会社は存続させて今後も仕事を提供する。さもなければリフォーム会社もこのまま倒産させる」

目の前が一瞬、真っ暗になりました。
あまりの理不尽な提案に、会場も静まりかえりました。

父の言葉を信じていたのに、債権者集会で一緒に頭を下げたのに、まさかその親父から裏切られるなんて、自分があまりに子供っぽくみじめで情けなかった。その上今度は自らの手で信頼してくれた人を裏切ってしまったのです。

「力になってあげたら?」

思いつめていた私を妻の言葉が救ってくれました。
「工事が途中で困っているお客さんがいるんじゃないの?力になってあげたら?」
「そうだその通りだ、困っているお客様を助けよう!」
すぐに当時の監督たちに声を掛け、一緒にお客様を訪問しました。

「ご迷惑を掛けて申し訳ありません。これから残っている工事を進めるために、この監督をお客様が個人的に雇ってください」
そうして、なんとか無事にお客様の家を完成させることが出来ました。
ただ誰からも感謝されません。
お客様にしてみれば、そもそも完成して当たり前
監督たちにしてみれば倒産で迷惑を掛けられたのは自分たちの方。
予期していたとはいえ、何とも寂しい現実です。

そんな気持ちを察してくれて妻が
「あなたのやりたい事をやったのでしょう、それで良いじゃない。良く頑張ったわ。」
「そうだな、感謝はされないけど、きっとみんなの役に立ったはずだよな」
明日への希望が持てず、途方に暮れていた時の無力感はなくなりました。
ようやく自分自身の力で歩く準備が出来ました。

今まで聞けなかったお客さんの声を直に聞こう!
困っているところを直して、喜んで貰えるようなリフォーム会社を始めよう!

「この街を出て行きなさい」

リフォーム会社エーゼン大塚建設として再スタートする時に、妻にはこう約束しました。 「2年間は俺の好きにさせてくれ、2年で物にならなければきっぱり諦めて仕事を探す」

でも、エーゼン大塚建設の創業はゼロからではなく、マイナスからの出発でした。

独立開業の挨拶に協力業者を廻りましたが、多くの会社で門前払い。それどころか
「工務店の債務を払ってくれるのか?」と詰め寄られる始末。そんな厳しい言葉をいく先々で浴びせられて気持ちはどんどん凹みます。
応援して欲しくて、いつも良くしていただいていたOBのお客様を訪問しました。
ところが
「同じ業種の仕事をするのは感心しない、悪い事は言わないからこの町を出て行きなさい」とまで言われ、改めて自分がイバラの道を歩いていることを感じました。

そんな中、子供が通う幼稚園の園長先生に言われました。
「大塚さん、乗り越えられる試練だけがその人に訪れるのよ」
下の子供の入園をお断りに行った時の事です。園長先生の優しい気持ちに私は大泣きしました。それまで妻と子供たち以外誰も私の味方はいなかったのです。

誰も直せなかった雨漏りを修理

まずは、ご挨拶をしようと、OBのお客様に手紙を出しました。でも、いただく連絡はクレームばかり、
「雨漏りがするのよ」
「換気扇の調子が悪い」
「床が傾いている」

園長先生の言葉を胸に、私は仕事に打ち込みました。
不具合なので代金はいただけません。
自分自身で雨といの交換や排水管の詰まり修理し、ロープにぶら下がって外壁のコーキングまで何でもやりました。家族を養わなければならない責任感がのしかかり、格好などは気にする余裕はありません、いつも汗とホコリにまみれていました。それでも食べて行けなければ、夜間の警備のアルバイトまでする覚悟でした。

嬉しいことに、ゼネコン時代に品質管理を徹底的に叩き込まれたのが役に立ち、11件あった「雨漏り」のクレームも2年の間に原因を突き止め、修理することが出来ました。
「5年前からの雨漏りで誰が来ても直らなかったのよ」
とお客様から感謝の言葉をいただいた時に、とうとう自分の居場所を見つけた気がしました。

ポツリポツリと仕事が入るようになりました。
妻に「このまま、エーゼン大塚建設を続ける。僕も頑張るから、支えて欲しい」
そう告げました。

お客様から15ページの手紙

会社を続ける覚悟を決めた私は、以前にも増してなんでも一人で抱え込みました。
打ち合わせをして、図面を書き、見積をして、現場にいて職人と一緒に自分自身で作業までする。それは、他人が施工した家の不具合を沢山見てしまったからです。自分が全て目を通しておけば絶対に不具合は起こらない。それこそがお客様が求めていることだと信じていました。

それから4年経ち、ようやく自分自身も納得出来て、お客様も満足できるリフォーム工事が提供できるようになった頃、2度目の住宅リフォームを戴いた水嶋さんから15ページに渡る手紙をいただきました。
「・・・せっかく内容の良い仕事をする能力があるのに、自分自らが納得する仕事をしたいが為に、あれもこれも自分の手で仕上げようとするが所詮は我が身はひとつ、ひとりでできることは限られている。それが溜まり溜まって大事な約束が守れなくなる。それは大事な信用を失っていく事になります」
ガーンと頭を叩かれたようでした。確かにあちこちの現場で工期が遅れています。4年前は汗まみれで現場を取り仕切る私に好感を持って下さった水嶋さんは、4年たっても成長もしていない私を叱ってくださったのです。
ありがたさと、恥ずかしさで泣きながら15ページの手紙を一気に読みました。

丁度世間では手抜き工事が話題で建築業界の信用が失墜していた時です。自分の手で工事をしていた私は、「皆が同じ気持にならなければ、明日は我が身。手抜き工事はひと事ではなくなる」そう危機感を感じていました。
「プロなら知識があって当然。勉強不足が起こす不具合は世間では手抜き工事だゾ」と業者に話していたのです。
「やはり自分が現場で動かなければダメだ!」と思いを強くしていました。

同じ頃、子供たちからもこう言われたのです
「パパはいつも電話口で怒鳴ってるよね」

ハッとしました。一体俺は何をやっているんだろう?
正論を言い、間違ったことを許さないその姿は
散々私を裏切った父の姿そのものでした。

祖父からの応援

あぁ、俺は何の為に独立したんだ。
自己満足の為じゃないだろ、お客様の喜ぶ顔が見たくてリフォーム会社を創業したんだろ。
「しっかり職人を指導して、作業は彼らを信頼して任せよう。そのぶん僕はちゃんとお客様の顔を見てしっかり話を聞こう」

やがて何度もお仕事をくださる町田さんがこんな言葉をかけてくれました。
「あんたのところの職人は感じのいい連中ばかりだ。類は友を呼ぶのかな」
「あんたは自分で動いて、指示を出しているところがいい。あれなら職人もいう事を聞くはずだ」

さらに嬉しい事に
「あんたの爺さんはそりゃあ腕のいい大工だったんだ」
新しく知り合った大工からも
「昔、あなたの御爺さんから仕事を教わった事がある」と言われました。

まさか、自分で独立開業してこんな素晴らしい話を聞けるとは思ってもみませんでした。天国の祖父が私にエールを贈ってくれているようでした。

実家の倒産をきっかけに
さんざん人に裏切られ、私自身も人を裏切ってしまい。いやと言うほどつらい思いをしてきました。でも、そのおかげで私は本当の意味でお客様と向き合えるようになりました。

私の誓い

もう2度と辛い思いをお客様にも協力業者にも、そして家族にもさせたくない。
だから、私は誠心誠意リフォーム工事に身骨を注いでいます。
自分自身の満足の為ではなく、お客様の幸せな生活の実現のために仕事をする。
子供時代からずっと、就職しても「人に嫌われたくない」ために、私は八方美人でした。でも、今は沢山の人から助言をいただいて気持ちが変わりました。
1万人に好かれる必要は無いんだ。100人の信頼しあえるお客様に支持していただければ十分だ。
そのために、不必要に媚を売るのもやめました。本当に私を必要としてくれるお客様に120%のサービスをしたい、そう思っています。

ゼネコンでは鉄筋コンクリートのマンション・学校・オフィスビルを新築し、公共施設の耐震補強とアスベスト除去の現場を監理。
実家の工務店では鉄骨造のビルや木造の住宅を手掛けました。
そして今では、電気と給排水の配管作業までも専門工と一緒にこなせますし、調査のためなら天井裏や床下まで潜っていきます。
自分で言うのもおこがましいですが、こんなユニークな経歴と実務をこなす一級建築士は珍しいのではないでしょうか。

残念ながら、そんな濃密なサービスは多くのお客様には提供できません。
ですから、私は合い見積もりはお断りさせていただいております。本当に安全で価値があり、その上長く快適に住む事の出来る家づくりの提案は大変な時間と労力が必要です。その情熱は少数でも理解しあえるお客様に注ぎたい、最高の仕事とサービスを提供していきたいと思っているからです。

もう少々の事ではへこたりません。開業して13年信頼して頂けるお客さまも増え、自分に自信もつきました。何と言っても私には100%理解して支えてくれる妻と子供たちがいます。私達家族が苦労を乗り越え、明るく幸せな家庭を築けた経験を活かし、今度はお客様に素晴らしいリフォーム工事を提案いたします。

住宅リフォームを通じて
笑顔と会話のあふれる幸せ家族づくりをサポートする
スーパーアドバイザー

追伸

エーゼン大塚建設のリフォーム工事はお引き渡しの時に、未完成な箇所を残しておきます。
生活してから「収納がもう少し広かったら良かったね」とか「この壁に明かり取りが欲しかったね」という気が付かなかった要望が現れるからです。だから、クローゼットの収納とか棚は未完成でお引き渡しして、生活していただいてからお話を聞いて完成させます。

あえて未完成の余地を残しておくことで、後からの変更工事に対してお客様も、当社もそして職人も気持ちよく取り組む事ができ、みんなが笑顔になれる事を知っているからです。

13年間口コミのみで仕事をさせていただいておりましたが、2012年4月にショールームをオープン出来ました。7月からは今まで何度も私を支えてくれた妻が正式に入社し、2人3脚で仕事をしています。
このショールームをきっかけに口コミだけでは出会えなかったお客様と出会い、ご相談にのれるようになれば幸いです。

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